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2009年12月 アーカイブ

2009年12月22日

士大夫のその後

その後、宋から王朝が移り変わっていったが、元を除いて士大夫が政権の中枢を担ったことには変わりない。明から清にかけて、士大夫が新たに郷紳という階級を形成し始める。郷紳は、基本的には士大夫と同じであるが、より地方での権力者としての意味合いが強調された語である。郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国時代にも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。
士大夫は文人でもあり、宋代に士大夫たちが作った新しい文化の流れが多数生まれている。文学においては、欧陽脩らの古文復興運動に表れる。古文運動とは六朝時代以来の四六駢儷体と呼ばれる文の美しさを重視した文体から脱却し、それ以前の質実剛健な文章への復帰を目指す運動である。漢詩においては、それまで多かった抒情詩から、叙事詩が中心になったことが挙げられる。これらは士大夫たちの、より主体的でより理性的であるべしと言う考えから生まれたと考えられる。思想・学問においては、士大夫のための新しい儒学の姿が模索され、様々な学派が形成された。その中でより実践的な道学も誕生し、士大夫が現実の世界で求められる像を求めて窮理が進められた。後に、道学は朱熹によって大成された朱子学によって代表されるようになる。

しかし、その一方で「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。三年地方官を勤めれば、賄賂などで十万両くらいは貯めることができることを意味する。また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。これらの点から、一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚に押し上げることは、最も得する商売であったとも言える。この現象は「陞官発財」(官に陞(のぼ)れば、財を発する)とも言われた。

では、「先憂後楽」と「陞官発財」、どちらが士大夫の実態であったのであろうか。これはどちらも士大夫の実態であり、どちらかを過剰に強調して士大夫を捉えようとすることは慎まねばならないと考えられる。朱熹は浙東提挙を勤めていた際に、知台州唐仲友に対して公金横領や商人と組んでの汚職などといったことで弾劾し、その後慶元偽学の禁の際に朱熹自身に対して恣意的に裁判を行ったり、公金横領を行ったと弾劾された。後者は後に朱熹を尊崇する人によって真っ赤な偽であると断定されたが、実際にはどうであったか?これらの朱熹と唐仲友に対する非難はおそらく当時の士大夫層一般に通ずることであり、このような所が士大夫の実像であったのではなかろうか。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者は士大夫と呼ばれるようです。


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